浄土真宗本願寺派光徳寺
(大阪府吹田市)
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万年小僧の言いたい放題

              

○ 明日への不安(2022年7月31日up 『光徳寺だより』467号 2013年10月1日号 掲載時改訂)

 観天望気という言葉があります。『日本国語大辞典』に拠りますと、「空や大気の状態を測定器によらずに観察し、過去の経験的な知識から天候を予測すること」とあります。例えば、「夕焼けの翌日は晴れ」、「朝焼けは雨」、「猫が顔洗うと晴れ」などなど。
 経験則ですから、「ほら、やはり」となる
こともある一方で、予測通りに行かないことや時間的なズレも少なからずあったでしょう。
 近年は測定方法が格段に進歩し、当日や翌日の天気はほぼ確実な予報が出されるようになりました。

 天気予報に限らず、親鸞聖人の頃には不確かだった未来の事象の多くが、科学の力によって予測できるようになりました。
 九月にお勤めをしました彼岸会にご講師が次のような主旨のお話をしてくださいました。

 数百年前に比べて、多くの事柄で将来を予測できるようになった。しかし、ひとつだけどうしても予測できないことがある。それは、いのちのことだ。とりわけ、自分のいのちや人生が明日どのようになっているか分からないという不安や恐怖は、いのちや人生以外の事象がある程度予測できるようになった現代こそ大きくなっている。 多くの大きなメディアが毎日様々な占いを伝えたり載せたりする。どこかに不安を抱えながら、無意識に何かに頼ろうとしている。それだからこそカルト宗教になびく人がいる。

 日常に係わる色々な事象が科学的、客観的に予測できるようになればなるほど、自分や愛するもの明日が確実ではないことが、心の底に大きな不安としてつねに渦巻いているように感じます。
 理性的に判断出来ることを受け容れることが出来ない、のも人間の現実のように思います。
 人間は生まれてきた限り必ず死にます。生きている限り年老いていきます。病気になります。その病気は、時には生命の維持そのものにかかわることもあります。他人のことなら、理性的に受け止めても、自分のことや家族や親しい人たちの現実となった時には、なかなか納得しがたいものです。
 もしかしたら、実際にそのような状況になっても、変わらない人がいるかもしれません。親が、つれあいが、我が子が、そして自分が、どのような状況にあっても、「理性的」に現実を受け止めることのできる人がおいでかもしれません。しかし、そのような人は稀だと思いますので、理性的な判断を受け容れることのできない場面に出くわす、私たちの話を続けます。
 理性的に受け容れることのできない現実に我が身をおく時、人は意識的にしろ無意識にしろ、それまでの自分の人生に対しての自信を失い、未来の自分に対しての展望を閉ざします。少しでも自信に満ちたもの、力がありそうに見えるものを支えにしようとしがちです。カルト宗教などの反社会的集団は、そこに滑り込みます。

 以前より申している通り、寺には二つの大きな宗教的役割があると、住職は考えています。
 ひとつに積極的な役割として、ひとりでも多くの方々が浄土真宗に値遇する環境を整えていくことです。
 もうひとつに消極的な役割として、たとえ「イエの宗教」でも浄土真宗の門徒という意識を持っていていただくことによって、反社会的になりがちなカルト宗教が招く悲劇や、いわゆる霊感商法の詐欺被害を未然に防ぐことです。

 経済的な将来予想も、私たちの不安を増幅しているかもしれません。例えば近隣諸国の様子なども、不安が煽られる材料になっているのかもしれません。
 そのような不安を施政者たちは巧みに利用し、一部の人たちの利益に誘導していく可能性もまた、歴史の教えるところです。
 科学的な教育を受け、理性的に考えることができる人が増えているはずの時代だからこその、危うさがあるように思えます。


○ 反社会的宗教 と 寺の役目(2020年4月7日up 『光徳寺だより』2000年5月1日号 掲載時改訂)

 カルト集団と呼ばれる、反社会的宗教は、私たちの社会とは全く別のところから現れたわけではありません。かえって、宗教的主体の確立した人の極めて少ない日本社会だからこそ起こってくるように思えます。その意味で、批判するだけでは、運動をするだけでは、根本的な問題の解決にはならないのではないでしょう。

 時には死を恐れ、人生の目的を見失い、価値の変わってゆくものばかり追い求めて、消えゆくものを得ては喜び、失っては嘆く。私たちは、必ずしも合理的に生活しているわけではなく、むしろ矛盾に満ち満ちながら、ごまかしごまかし生きているようにさえ見えます。そして、何かのきっかけで、矛盾がごまかされなくなった時、それまで宗教など必要ないと思っていた人の心にも宗教的情緒が芽生えるのです。
 しかし、その思いをどう処理していいのか、分からないこともあります。そのスキを巧みに突かれ、似非宗教へとはまっていくことが多いのです。そして、その危険は、今のような新しい感染症が広がる社会情勢の中で、ますます高まっているのではないでしょうか。

 寺の役目は、門信徒一人ひとりに、ほんまもんの宗教をお伝えすることです。それが、似非宗教への抵抗力ともなるのです。
 住職としては、仏教以外の宗教も含めて他宗他派に入信なさることを妨げるものではありません。自らが選び取った信仰であるなら、必ずしも先祖代々にこだわる必要を感じません。しかしながら、似非宗教や宗教の名をかりた商法に関しては、力の及ぶ限り門信徒をまもりたいと思っています。そして、その方法として、寺はしっかりと仏法を伝え、門信徒には仏法を間違いなく聞いていただきたいのです。


〇 2015年5月 永代経法要の栞(2016/6/3up)

 本日はようこそお参りくださいました。長い年月を経て仏さまの教えは今に届けられて来ました。その伝え手は、私たちの父母であり、祖父母であり、浄土真宗のみ教えに生きられたすべての方々です。
永代経法要は、今こうして仏さまの教えに遇わせて頂いた私たちが、今度は伝え手のひとりとなって、み教えを後の世代に伝えていく法要です。

 住職は最近、葬送儀礼の研修会に、講師として呼ばれる機会があります。僧侶だけでなく、門徒も参加の研修会だと、光徳寺の葬儀の進め方や、住職が気をつけている点などについて質問が出ます。しかし、僧侶だけの研修会だと、お金の話になることが少なくありません。家族葬が増えていることに因る葬儀の規模の縮小や、江戸時代以来の寺と檀家の関係が希薄になることに因る寺院収入(御布施)の減少が、僧侶に危機感をいただかせているようです。
 そのような、僧侶だけの研修会では、まず最初に二つの年号を挙げることにしています。それは、九五五年と一二〇三年です。九五五年は、中国において四回目の国家規模での廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われた年です。一二〇三年というのは、インドにおける仏教徒の拠点であったヴィクラマシーラ寺院が、イスラームの軍隊によって破壊され、インドから仏教教団がなくなった年です。
 なぜこのような話を研修会の冒頭にするかというと、それは仏の悟りは永遠であっても、寺院や教団は永遠ではあり得ない、ということを示すためです。ましてや、親鸞聖人の示してくださった浄土真宗のみ教えとは異なる、江戸時代に形づくられた檀家制度と先祖供養の上に安住してきた真宗寺院が、その役割を終えるのは歴史の必然でさえあるのではないでしょうか。もしかりに僧侶の生活や檀家の都合で寺が残されていくなら、そのような寺院で仏法を聞くことは不可能ではなくともどんどん難しくなり、多くの浄土真宗寺院開基の理由である「聞法の道場」から離れていくことになるでしょう。ですから、葬儀に対する人々の意識の変化にともなう寺院経済の縮小に危機感をもって、葬儀における収入ばかりを問題とする研修会を開いても、かえって大半の現代人の気持ちと僧侶の感覚が開くだけなのです。

 お釈迦さま誕生の地であるインドで仏教教団がなくなったことは、直接の原因はイスラームの軍隊による破壊でしたが、それを護ることのできなかった教団の状況があったようです。というのも、当時より現代に至るまでインド社会の基底にあるヒンズー教が人々の生活と密接に結び付いていたことに対して、出家中心のインド仏教では人々の生活から乖離して教団を支える経済基盤を失っていったとする、学者の指摘があります。
 一方、中国での廃仏毀釈は、仏教を禁止し、仏像や寺院を壊し、経典を焼くことです。僧侶は皆還俗させられました。日本でも、明治の初めに政府が神道中心の国家をつくろうとしたために、廃仏毀釈運動が起こっています。この九五五年の廃仏毀釈以降も、中国では仏教は残るのですが、それはお釈迦さまの教えとは全く別物でした。実質的に皇帝(国家)が認めた寺院だけが寺院としての機能を維持し、教えは儒教の精神と一致したものになり、本来の出世間の宗教性を失います。親鸞聖人が、浄土真宗のみ教えを示してくださる以前に、すでに世界史レベルでは、仏教はその真実なるものを失くしていたのです。

 親鸞聖人は、そのような仏教の世界史的な現実を、経典や中国僧の著述から読み取っておられたのかもしれません。法然聖人の教えを強く批判された明恵上人は、インドに行ってお釈迦さまの聖跡を巡拝することを願っておられたといいます。しかし、親鸞聖人、明恵上人ともに三十歳を過ぎられた頃には、すでに仏教教団はインドから姿を消すのです。
 『正信偈』の中に、「真宗教証興片州」と示されます。お釈迦さまのお生まれになったインドから、遠く離れた日本(片州)において真実の教えと悟りが伝えられたという、この言葉はその世界史の現実を意識されていたのかもしれません。同時に、この言葉が法然聖人を讃えられる部分に見られるということは、インド訪問を熱望されていた明恵上人による法然聖人批判への答えの一つだったのかもしれません。
 いずれにしろ、親鸞聖人は、インド、中国そしてそれまでの日本仏教で失われていた仏教の真実なることを、明らかにされました。たとえ形あるものはその形を失っても、真実は伝えられていくのです。
 さて、インドにおいても、組織的な活動が一度は途絶えたとはいえ、現在のインドでは、根強くある身分制度(カースト制)を維持していく社会意識に対して、いのちの平等を説く仏教に改宗する動きが続いています。形あるものは滅んでも、永遠なる悟りは生き続けていました。
 形あるや自らの肉体という壊れるもの消えてゆくものを頼りに生きる私が、永遠のいのちに帰依することによって、永遠のいのちに生かしめられていく。そのことを自らの聞法に確かめていくののもまた、永代経法要の味わいの一つではないかなと、感じています。


○ 私は何者か(2015/1/31up;『光徳寺だより』2003年3月号より)
  一昨年(2001年)9月11日にアメリカ合衆国で起こった同時多発テロは、その後アメリカ合衆国を中心としたビン・ラディン氏及びタリバン勢力への報復攻撃という形で展開しました。それに関して、多くのメディアの見出しになったのが「文明の衝突」という言葉でした。
 ご存知の方も多いと思いますが、この言葉はハーバード大学のハンチントン教授が、冷戦後の世界情勢を分析する中で「文明圏の対立及び衝突」が生じる可能性を論じた論文に拠ります。その中でも特に民主主義や人権といった体制の違いによって分けられる、アメリカ合衆国を代表とする西欧文明とイスラム社会を代表とする非西欧文明の衝突の構図が同時多発テロ以後の状況に酷似するところからメディアをはじめ政治家や評論家たちの注目を集めたのです。ちなみに、イスラムの側では神学者出身のハタミ・イラン大統領が「文明の対話」を主張していますが、日本ではあまり注目されていません。

 さて、アメリカ合衆国の報復が決まると、日本はすかさずアメリカ側に立つことを表明し自衛隊を海外派遣しました。政治的解釈はさておき、ここで問題なのは、日本が西欧文明と同一の文明であるかどうかということです。言い換えれば、ハンチントン教授の文明分類には、日本は「日本文明」として位置づけられていますが、果たして現在の私たちに独自の文明があるかどうかということです。
 クリスマス、除夜の鐘、神社への初詣、帰省して墓参り・・・と年末年始の一週間ほどを考えるだけでも、一つひとつは宗教的な行事であっても、そのすべてに何のためらいもなく参加する多くの日本人は、宗教的感性が鈍いといわざるを得ません。宗教は文明の土台です。宗教的に自己同定できない日本人にとって、自らの文明を自覚することなど出来そうにありません。同時に、それは自己存在を明らかにすることも難しいという現実を物語っています。

 振り返ってみれば、戦前の国家神道による精神的支配も日本人の宗教意識の低さを巧みに利用したものでした。私たちの本願寺教団も「皇国宗教としての浄土真宗」を標榜し、親鸞聖人の教えをねじ曲げて、積極的に戦争協力を行ったのです。僧侶もまた教勢の維持と自己の保身のために、自らの存在を問うことを止めたのです。
 もちろん、強権的に言論や思想が統制されたという時代的背景はありました。しかし、大きな時流の中で自らの存在を問いながら生きるということが苦手な国民なのかもしれません。頑固な人はいても、主体的に生きることのできる人は少ないのです。
 一般に宗教には三つの問いがあるといわれます。ひとつは「私はどこから来たのか」、次に「私はどこに行くのか」、そして「私は何者か」という三つです。現代日本人の多くが宗教的に「私は何者か」という問いに答えられないからこそ、つまりハンチントン教授がいうほどに自らの文明を自覚していないからこそ、日本政府は安易に西欧文明に乗っかることが出来るのだと思います。

 今またアメリカ合衆国主導でイラク攻撃の準備が進められています。先日の国連演説でも、日本政府は、不明瞭な国会答弁とは裏腹に、イラク攻撃への明確な支持を表明しました。このようにアメリカ合衆国に安易に追従してしまう背景には、日米安保による政治的・軍事的関係の制約という事情のみならず、精神文化の未熟さがあるように感じます。
 以前にも書きましたが、もし戦争で人が死亡すれば、その政策を支持した者も同じ責任を背負わなければならないと覚悟すべきでしょう。民主主義社会においては、政権の決定に対して私たちは無辜(むこ)の市民ではいられないのです。賛否どちらにしろ、情報に過度に振り回されることなく、国民一人ひとりが自らの存在を問う中に、自らの主体的な意見を持ち、それを世論に反映させたいものです。



○ 2010年5月 永代経法要の栞(2012/5/3up)

 本日はようこそお参りくださいました。長い年月を経て仏さまの教えは今に届けられて来ました。その伝え手は、私たちの父母であり、祖父母であり、浄土真宗のみ教えに生きられたすべての方々です。永代経法要は、今こうして仏さまの教えに遇わせて頂いた私たちが、今度は伝え手のひとりとなって、み教えを後の世代に伝えていく法要です。

 住職が光徳寺の法務をあずかるようになって、まだ間もない頃の話です。あるご門徒さんから、法話のテーマについてリクエストがありました。その方がお参りされたお寺に「自信教人信(じしんきょうにんしん)」という言葉が書かれた額が掛けられていたというのです。
 この言葉は、善導大師(ぜんどうだいし)の著された『往生礼讃(おうじょうらいさん)』という本に見えます。そこには、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真実報仏恩」という一句があり、その味わいを聞きたいというリクエストだったのです。
 善導大師は、『正信偈』に「善導独明仏正意」と示されるように、親鸞聖人が七高僧のお一人に挙げられた、中国のお坊さんです。それまで、念仏といえば、心に仏さまのお姿を想う観想念仏が主流でした。それに対して、「南無阿弥陀仏」を称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)こそ大切であると、善導大師は教えてくださいました。そこで、親鸞聖人は、善導大師独りだけが仏さまの教えを正しく伝えてくださったと、『正信偈』に書いておられるのです。
 ところで、親鸞聖人は、その主著であります『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』に、この句を二度引用されています。ところが、善導大師のお書きになった『往生礼讃』から直接引用されるのではなく、善導大師より少し後の時代の智昇(ちしょう)さんがまとめられた『集諸経礼懺儀(じゅうしょきょうらいさんぎ)』とう本から、いわば孫引きをなさるのです。というのも、親鸞聖人の引用文には「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真実報仏恩」とあり、聖人自身が智昇さんの本に拠ったと注を付けておられるのです。つまり、善導大師が著された『往生礼讃』では「大悲伝普化」とあるところを、親鸞聖人は「大悲弘普化」となっている智昇さんの引用を、わざわざ孫引きされているのです。
 親鸞聖人の引用文の文字が、私たちが今日見ることのできる経典の文字と違っていることは珍しいことではありません。しかし、わざわざ文字を変えたことを明記されている例は多くはありません。また、親鸞聖人が『往生礼讃』を読んでおられなかったかというと、そうでもありません。親鸞聖人は、『往生礼讃』をしっかりと見られた上で、わざわざ孫引きをされたのです。それは、どうしても「伝」ではなく「弘」の字を使われたかったからではないでしょうか。その意味についてはご法話でお話しする機会もあると思いますので、ここでは別の視点から考えてみましょう。
 鎌倉時代初期までは、仏教経典に限らず、書籍は写本で伝えられて来ました。コピー機はもちろん、印刷技術もありませんから、原本から一字一字写して写本が作られました。そして、その写本がまた原本となって、写本が作られ、伝えられて来たのです。
 写経といえば、特定の経典を個人的に写すということを思い浮かべられる方もおいででしょう。しかし、現存する平安時代以前の写経の多くは、一切経(いっさいきょう)の一部です。中国では、インドやシルクロードの言語で伝えられた仏教経典を中国語に翻訳されました。やがて、その数が大きくなりますと、分類して整理する必要に迫られます。そこで、経典のカタログが何度も編纂されるのですが、それによって仏教経典の総数が決まってきました。その結果、概ね一千部五千巻余の経典を、一切経もしくは大蔵経(だいぞうきょう)と呼び、経典の全てとしたのです。
 奈良時代より平安時代にかけて、一切経の写経が行われ、寺院や神社に奉納されました。それだけの経典を写すのですから、時には国家規模の事業となり、そのスポンサーは、天皇家であり貴族でした。したがって、用紙や筆記具も当時最高の物が用意されました。住職も、学術調査で平安時代の写本をいくつも手にとって見ましたが、一千年近くを経ても紙の質の良さがしのばれ、墨の黒さは変わることがありません。中には、金箔や金泥で装飾したものや挿絵のはいったものもあります。写経生と呼ばれる漢字にも経典にも詳しい専門家が丁寧な字で写しています。それを、別の人が校正をしますから、ほとんど間違いがありません。
 それでも、写本によっては文字の違っている場合があります。単純な筆写の間違いもあったでしょう。また、地位の高い人物の本名に使われる文字を用いない場合もあります。様々な事情で、『往生礼讃』の「伝」と「弘」の字のように、異なる文字で伝えられることがあるのです。それどころか、今では、同じ『集諸経礼懺儀』でも写本によって「伝」と「弘」の違いのあることが分かっています。写本を調べることによって、親鸞聖人が読まれた一切経が推定されるようになるかもしれません。
 一方で、こうした写本のいくつかは、地方の寺院に伝えられて来たものもあります。ひとつには、地方都市の郊外にある寺院は、先の大戦の空襲にあわなかったという事情があります。各地各地に広く一切経が奉納され、それを代々受け継いでこられた人々がおいでだったからこそです。
 今日、私たちが文字の違いから、親鸞聖人の引用の意味を考えることが出来るのも、時代を超えて写本が今日に伝えられてきたからです。
 永代経法要は、僧侶と門徒が一緒に、後の時代に経典(教え)を永く遺していく法要です。


○ 2011年5月 永代経法要の栞(2012/5/2up)

 本日はようこそお参りくださいました。長い年月を経て仏さまの教えは今に届けられて来ました。その伝え手は、私たちの父母であり、祖父母であり、浄土真宗のみ教えに生きられたすべての方々です。永代経法要は、今こうして仏さまの教えに遇わせて頂いた私たちが、今度は伝え手のひとりとなって、み教えを後の世代に伝えていく法要です。

 私たちの宗祖・親鸞聖人は、承安三年(一一七三)にお生まれになり、弘長二年(一二六二)十一月二十八日に往生の素懐をとげられました。今年は、七五〇回会(日本仏教の伝統的な言い方では、七五〇回忌)をお勤めする年に当たります。
 鎌倉時代のことですから、ご命日は旧暦で伝えられています。これを現在私たちが使っている新暦に換算しますと、一二六三年一月十六日となります。明治政府は欧米の暦にあわすため、明治五年十二月三日を明治六年一月一日に改め、これより新暦の使用が始まります。明治六年は一八七三年ですから、明治五年は一八七二年という具合に旧暦が西暦(国際歴)に換算されました。ところが、この改暦はかなり急なものであったようです。歴史の年表では、新暦への換算は年号だけで、日付までには及びませんでした。そのため弘長二年は年表には一二六二年と表記されますが、その年の十一月二十八日は、新暦ではすでに年が明けて一月十六日になるのです。西本願寺(浄土真宗本願寺派)では、親鸞聖人七五〇回大遠忌法要を来年の一月十六日までお勤まりになります。ちなみに、東本願寺(真宗大谷派)は、改暦以後もご命日は旧暦の日付(十一月二十八日)に拠っていますので、御遠忌法要においても一二六二年の七四九年後の本年十一月二十八日までお勤まりになります。

 さて、話を進めましょう。親鸞聖人が往生の素懐をとげられた(お亡くなりになった)のは、一月十六日の昼頃と伝えられています。そこで、本願寺での大遠忌法要や報恩講のお勤めは、十六日の午前中まで行われます。つまり、私たちのお勤めは、命終後に行うのではなく、命のある間に行うのです。お経には、仏さまの教えが説かれているのですから、言い換えれば仏さまの教えを聞くことの出来る間にお勤めするのです。
 お釈迦さまは、人々の苦悩に合わせて教えを説かれました。そのお説法を後世に整理して文字にしたものが、経典として今日に伝わっています。ですから、経典は生きている者へのお説法であり、命終わった者に対して説かれた経典などありません。命終の後の読経は、親しい人を見送る者への仏さまのお説法であるのですが、現実には全く反対に理解されている方も少なくありません。
俗に枕経と呼ばれるお勤めは、正式には臨終勤行(臨終のお勤め)と言います。住職は、臨終勤行のお勤めの際に、その意義について説明しています。臨終とは「死ぬ間際」という意味ですから、命終わる前にお勤めするのが意味に適います。しかし、現在の日本の医療の事情もあり、実際には命終後のお勤めになっています。また、生活の中から仏教の教えがだんだん失われていく中で、仏教が死者儀礼のための教えという誤解が広まってしまいます。正しい教えを説いて誤解をなくしていくことは楽なことではありませんから、そこには、誤解を放置したままにして来た僧侶や寺院の怠慢があることは言うまでもなく、これは住職が向かい合わなければならない大きな課題です。
 臨終勤行について、もう少し広げて考えてみましょう。私たちは、生まれてきた限りは必ず命終わっていくことが定まっています。実は、私たちにとって、一度一度のお勤めが臨終勤行なのです。江戸時代の俳人である松尾芭蕉は、晩年辞世の句を求められて、「きのふ(昨日)の発句はけふ(今日)の辞世、けふの発句のあすの辞世、わが生涯云い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし」と応えられたと伝えられています。年老いたり、病が重篤であったりして、医師でなくとも死ぬ間際と理解できる場合だけを臨終と考えるのではなく、今この時を臨終と聞いていくのが仏教の「無常」という教えです。
さて、浄土真宗の仏事はすべて、仏教本来の意味に従って、命ある間に教えを聞かせていただくのだということを前提として進め方が組み立てられています。浄土真宗に限らないと思います。仏教を名のる限りは、どの宗派でも外れてはいけない原則があるのです。ところが、日本の仏教はどんどんその原則から離れるばかりです。

 四月下旬に東日本大震災の四十九日(満中陰)法要が多くの寺院で営まれました。新聞をはじめ、多くのメディアが四十九日を四月二十八日と報道しました。本願寺においても四月二十八日に阿弥陀堂で四十九日法要が勤修され、大阪・本町の津村別院でも同様に法要がありました。
 この数え方は、命日(三月十一日)より数える計算の方法です。震災の四十九日法要に限らず、命日から数える方が、仏教の基本的な知識や仏事の経験に乏しい方々には分かりやすいのでしょう。仏教を死者のための儀式としか理解していない人たちにとっては、命日から数えるのは当然のことなのかもしれません。
 しかし、前述のごとく、お釈迦さまの教えに死者のために説かれた教えはなく、経典は死者を弔うために伝えられたものでもありません。そこで、本来の四十九日の数え方は、命日の前日の午後(逮夜と呼びます)より数えます。その数え方に従いますと、四十九日は命日から数える数え方の一日前となります。命日から数える方法は、仏教を誤解している人たちには分かり易くありますが、本来の仏教からは離れた考え方です。

 親鸞聖人は、真実の教え(本当の仏教)を求めることにご生涯をかけられました。分かり易いという理由だけで安易に仏事を改めると、いつの間にか生きる者が聞かせていただく教えが、死んだ者を供養する経に変わってしまい、教えが曲げられてしまいます。だからこそ、本当の教えをしっかりと伝えていくことが大切です。永代経法要は、そのことを私たちが確認していく法要なのです。


○ お盆の過ごし方〜『盂蘭盆経』を読む〜(2009/7/31up)

 インドにお生まれになったお釈迦さまがお説きくださった教えは、中国語に翻訳され日本へと伝えられました。それらの書物を、私たちは「お経」と呼んで大切にしてきました。しかし、中には、お釈迦さまが説かれた形をとってはいるものの、実際には中国で書かれた「お経」も伝わりました。
 仏教が伝わった当時、多くの人たちにとっては、その教えはなかなか理解し難かったようです。そこで、中国の思想や習俗を入り口にして易しく説き、経典形式に整えて伝えてきたのです。以前は、本当のお経(真経といいます)ではない、ということで、経典の研究者たちは「疑経」もしくは「偽経」と呼んで貶めてきました。これらの中には、権力者が仏教を利用するために作り上げた、文字通りの「偽経」もあります。
 その一方で、これらの経典の多くが仏教を広めるのに大きな役割を果たし、同時に民衆の精神的拠り所となっていたことが、近年分かってきました。また、真経にも翻訳や伝播の過程で編集が加えられている経典のあることが明らかになり、真経と疑経との境目が明確にできない事例も浮かび上がってきたのです。そこで、研究者の間でも「疑経」という呼称を改めて、「民衆経典」や「庶民経典」などと呼ばれるようになってきました。

 「民衆経典」のひとつで、日本人の仏教観や習俗に大きな影響を与えているのが、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』です。『盂蘭盆経』は、お盆の由来となった経典です。
 中国で書かれた経典を根拠にしているのですから、お盆はインドの仏教にはありません。お盆は、漢字文化の仏教徒に固有の仏教文化です。その一方で、私たち浄土真宗では、お盆だからといって日常と違う仏事を営むわけではありません。
 また、仏さまの教えを中国の人に分かり易く伝えるために中国で書かれたのですから、孝(親孝行)思想という儒教の考えを反映したテーマになっています。また、現代の意識から考えれば、女性を差別しているという意見もあります。
 そのような事情をふまえた上で、『盂蘭盆経』を読んで、私たちの生活に根付いているお盆について考えてみたいと思います。
 
 釈尊(お釈迦さま)のお弟子の中でも不思議な能力に優れた目連(もくれん)さんが、その能力を用いて亡くなった両親の行方を探されますと、お母さんは餓鬼道に落ち、飲食するものがなく骨と皮だけの姿でありました。そこで、目連さんはすぐに鉢にご飯を盛ってお母さんのもとに行かれますが、お母さんが食べようとすると燃えて炭となってしまいました。目連さんは悲泣し、急ぎ戻って釈尊にこの様子を具さにお話しになりますと、釈尊は、十方の僧侶たちの勝れた力だけが目連さんのお母さんを救うことができるとして、救いの法を説かれました。
 「十方の僧侶たちは、七月十五日に安居(あんご)を終えるので、亡くなった七世前以来の父母と、今苦しむ父母のために、様々な料理と果物を盆状の器に盛り、什物は最高のものをその盆に添え、衆僧を供養しなさい。この日は、修行をしていた僧侶や、勝れた力をもって人々を教化していた菩薩方が大衆とともに心を同じくして供養の食事を受ける。清浄の戒を具えている聖衆は、その徳が広く深い。このような僧たちに供養すれば父母、七世の父母、六種の親族までが三途の苦より出て、衣食も自然に調う。父母が存命なら、その福楽は百年に及び、すでに亡くなった七世の父母は天に生まれ、無量の快楽を受ける」と。
 次いで、釈尊は十方の衆僧に、先ず施主の家のために七世の父母を呪願し、心を落ち着けて後に食を受けることと、初めて盆を受けるときは、先ず仏塔の前にお供えし、呪願の後に食を受けるよう、命じられました。
 目連さんと、お説教を聞いていた菩薩方は皆大変歓び、目連さんの泣き声も止みました。そして、目連さんのお母さんはすぐさま、餓鬼の苦しみを脱することができました。そこで、目連さんは、自分の父母だけではなく、この盂蘭盆をお供えするすべての仏弟子の父母が救われるかどうかを、尋ねられました。
 釈尊は、答えて次のように説かれました
 「仏には歓喜の日であり、僧には安居を終える日である七月十五日に、比丘や比丘尼、在家信者のどのような身分の者であっても、孝慈を行う者は皆、過去七世以来の父母のため、百味の飲食を盂蘭盆に盛り、十方の僧に施して呪願を請えば、現在の父母の寿命は百年となり、病無く一切の苦悩の患いがない。また、七世の父母に至るまで餓鬼の苦を離れ天人に生まれて福楽は極まりない。仏弟子が父母や七世に至るまでの父母をいつも心に憶い、毎年七月十五日に孝順にして父母並びに七世の父母を慈憶して盂蘭盆を作り、仏及び僧に施し、それによって慈愛をもって育ててくださった父母の恩に報いよ。一切の仏弟子は、この法を奉持しなければならない」と。
 目連さんと弟子たちは、そのお説法を聞いて歓喜し、教えの通り行うこととなりました。

 雨季と乾季に分かれているインドでは、遊行している僧侶たちが雨季には集まって定住し、修行に専念します。これを安居といいます。
 仏教の辞典には「盂蘭盆」の意味について、いくつかの説が見えますが、この経典を読む限りは、「盂蘭盆」もしくは「盆」というのは、安居の終わる七月十五日に行う、僧侶へのお供え物(供養)を載せる器、もしくはその器に載せたお供え物という意味に理解できます。
 『盂蘭盆経』には、供養は死者に対するものではなく、僧侶への施しとして説かれます。僧侶は教えを説いて、施しを受けます。この経文に呪願とありますが、「まじない」という意味ではありません。呪は仏さまの教えを保持する言葉であり、、施主に感謝し、教えの言葉を唱えて一族の幸せを願うことを呪願といいます。
 中国で成立した経典には、布施や僧侶への供養について説くものがあります。それは、僧侶の都合ではなく、布施という概念がなかった中国の人々に布施という行為を伝えるためです。
 また、両親や家をおいて出家することに対して儒教社会の中国では反発も大きく、『盂蘭盆経』は、それに応える経典でもありました。中国で書かれたこの経典の説明には、「仏教徒でない人は、親孝行と言えば自分を生んだ両親のことしか考えないが、仏教徒にとっての孝とは、七世の父母の恩に報いること」として、仏教が中国の伝統的な孝思想より勝れていると記されています。「七世の父母」とは、文字通り七代前までの祖先を意味するというよりは、親疎を問わず縁あるもの全ての救いを願うのが、仏教徒だという理解ではないでしょうか。

 『盂蘭盆経』は、釈尊の言葉を伝える真経ではなく、仏教を弘めるために、中国の思想や習俗を入口として編集された経典です。しかし、仏教の基本を外れているわけではありません。つまり、
 @供養は三宝(仏、教え、教団)に対して行われる。現在の日本人の多くが思い込んでいるお盆のような死者供養はしませんでした。
 A教え(法)が伝わることが一族の幸せとなる。仏さまの教えの言葉を聞くことを大切にしたのがお盆です。
 B近しい故人だけでなく、自らに繋がるすべてのいのちに思いを馳せる。余談ですが、光徳寺の前々住職は、子供たちにお盆の期間に蝶やトンボを捕ることを厳しく誡められたそうです。現住職も子供の頃、日頃は昆虫採集を見逃してくれていた前住職から、お盆の間だけは同じように誡められました。

 今年のお盆は、こうした原典の伝える意味を汲みながら、過ごし方を考えてみては如何でしょうか。


○ 2006年5月 永代経法要の栞 (2007/5/3up)

 住職は数年前から、国文学者が日本の説話文学のルーツを再構成する研究のお手伝いをしています。例えば、『今昔物語集』には、インドや中国の仏教説話が収録されています。それらの話は、仏教経典から収録されるのですが、ひとつの話について、原典と考えられる経典が複数見つかる場合があります。それが同じなら問題がないのですが、例えば原典Aと原典Bそして『今昔物語集』に収録されている話に、言葉遣いや構成に相違点がある場合もあります。
 また、日本において説話物語集が編集されたのと同じように、中国でもいくつもの経典から物語を収拾して物語集が編集されました。恐らくは、布教活動の原型を形作った唱導師(しょうどうし)と呼ばれる僧侶たちが唱導(いまでいう説教や布教の原型)の材料として利用したのかもしれません。
 日本の説話文学集に収録されている話には、仏教経典から直接引用したものではなく、そのような中国で編集された物語集を経由していると考えられるものが多いことが分かっています。しかし、原典や中国の物語集の中には、散逸してしまったものもあれば、流布の過程で改変されてしまったものもあります。ところが、散逸してしまったとはいえ、日本や中国に古写本の断片だけ遺されていることもあります。住職がお手伝いしている作業は、断片だけ遺されたり改編されたりした文献を、再構成して読み解き、原典と考えられる中国語訳された経典と日本の説話文学との間を埋めていくというものです。
 話が少し専門的になりました。簡単にいうと、日本の古典文学に見られるインドや中国の仏教説話が、日本に伝えられてくる間に、どのように変わったかを調べているのです。逆にいえば、インドから中国に伝えられ、中国語(漢文)に翻訳された経典は、伝えられる間に、使われる言葉や内容が変わってしまう場合があるのです。この研究をしている中心メンバーには僧侶や寺院関係者はいませんので純粋に学問的視点からだけで文献を読んでいきますが、手伝いをしている住職は僧侶としての視点も合わせて読みます。すると、言葉や内容を変えていく動機が分かるような気がするのです。例えば、ここを違う言葉に変えたのは、教えを伝えることよりお金集めに重点を置いているな、とか。
 同じモチーフの話が、時には仏教の本質を伝えたいという願いに満ち満ちた話になり、時には時代の要請に迎合する話になり、時には伝える集団や僧侶の都合にかなう話になる。そんなことが読み取れるのです。

 時代は変わって、先の戦争において、私たちの本願寺教団は、親鸞聖人の著書さえ削除改訂して戦時体制に恭順する姿勢を示しました。それらの文言が日本の国体観念に矛盾し、天皇神聖の原理にも抵触するので、国家への忠誠を表するために読誦や引用をしないというのです。しかも、このような親鸞聖人の著書の改変をはじめとした、いわゆる戦時教学の構築は「教団の戦争への対応は国家に追随するにとどまらず、国家の意図を先取りした主体的協力でもありました」(念仏者九条の会編集発行『仏教と憲法九条』)と評されるものでした。
 つまり、戦争の経過や戦後の思潮によっては、私たちは現在頂戴しているような聖典とは文言が異なった聖典を、当たり前のように読誦している可能性があったのです。こんなことを考えてみると、今日私たちに伝えられている聖典が、親鸞聖人以来、聖人のお心にそって伝えられてきたのか、常に確かめていく必要があるといえます。そのような営みが、親鸞聖人の門徒としての生き方を明らかにし、家族や地域社会だけでなく、国の地球の未来を考えていく主体的な価値基準を育てていくことにまでつながっていくように思います。

 仏教が現在まで伝えられてきた歴史を顧みれば、永代経法要は、何をどのように伝えるかを考える法要でもあったことに気づかされるのです。


○ 2003年5月 永代経法要の栞 (2004/4/28up)
 本日はようこそお参りくださいました。長い年月を経て仏さまの教えは今に届けられて来ました。その伝え手は、私たちの父母であり、祖父母であり、浄土真宗のみ教えに生きられたすべての方々です。永代経法要は、今こうして仏さまの教えに遇わせて頂いた私たちが、今度は伝え手のひとりとなって、み教えを後の世代に伝えていく法要です。

 ある住職からうかがった話ですが、光徳寺の前住職が若かった頃、臨終のお勤めに寄せていただいた先で「故人はお寺へ参ることもなく仏法を聞いてませんけど、極楽浄土へ往ったんでしょうか」と尋ねられて、「お浄土へ生まれるのは無理ですな。教えを聞いてへんもんが仏さんになるわけがありません」と答えたそうです。結果、ご家族からかなりの叱責を受けたとか。
 しかし、浄土真宗の教え、いや浄土真宗に限らず、その宗教の教えに遇ってもいない者が、その利益(りやく)だけを受けるということはあり得ないのです。もしあるとすれば、それは宗教ではなく、何か別のものなのでしょう。

 さて、各家庭にお参りをしていますと、時々お酒やビールがお供えされていることがあります。すでにご承知の方も多いと思いますが、私たち浄土真宗では、お仏壇の中にお酒をはじめお茶や水などをお供えしません。もし、どうしてもお供えしたいということなら、お仏壇の外に瓶や缶のままお供えになって、後ほど「おさがり」としてお飲みいただければけっこうかと思います。
 それでも時折、よく冷えたビールが栓を抜かれてお仏壇の中に供えられています。私もビールが好きですので、夏の日のお参りの時など「お勤めの後におさがりを・・・」なんて思いながら見ていることもあります。
 断っておきますが、お仏壇は先祖のおいでくださる場所ではありません。お仏壇の「仏」は、私たちにとっての仏さま、すなわち阿弥陀仏にほかならないのです。だから、故人を偲んで好物をお供えしても、それは阿弥陀さまへのお供えということになります。そのことをふまえた上で、その冷えたビールを仮に故人へのお供えであったとしましょう。私は、ご家族にお尋ねします。
「おつれ合いはビールがお好きだったんですか」
「はい、お酒が好きで毎晩飲んでいました。特にビールが好きでねえ。肝臓を悪くしてか らも、やめなアカンと分かっていても、何だかんだ言っては飲んでました」
「きつくはお止めにならなかったのですか」
「言うてケンカになったときもあります。そら、一生懸命家族のために頑張って、他に特別楽しみがあるというわけでもない人やったから、家で飲むビールくらい自由にさせてやりたいと思いましたよ。でも、命かかってたら別です。こっちも心を鬼にして、一日一本だけ冷蔵庫に冷やして、後は隠しました。その度、えらい怒られて・・・」
「そうですか。それは、大変でしたなあ。身体のこと思もて言うたはんのになあ。まあ、 私も人のこといえませんが・・・」
「そやけど、こんなに早う亡くなるんやったら、厳しいこと言わんと、もっと飲ませたげ たら良かった思もてますんよ」
『もっと飲ませといたげたら』という思いが、お供えの冷えたビールなんだなと理解しました。
 しかし、どうでしょうか。おつれ合いがおいでの時に、
「どうせすぐ死ぬんや。そやから、今のうちに飲まして」と言われて、
「そやな、死んだら飲まれへんから、もっと飲みなはれ」というわけにいかないでしょう。『もっと飲ませといたげたら』というのは、亡くなった後で言えることであって、存命中に言えることではありません。亡くなった後の情と、健康を気遣う現実との違いがあるのです。

 仏の教えに遇っていなくても、ひとたび命終わると「仏さまになられた」と言われることがよくあります。「死んだら誰でも仏」だというのです。しかし、これは多分に情的な言い方であって、亡くなってからの『もっと飲ませといたげたら』という気持ちと違いはありません。肝臓を悪くしておられる方に「もっとお酒を飲んでも大丈夫ですよ」と言えないのと同じように、仏法を聞いておられない方に「あなたも臨終の後にはお浄土に参られますよ」とは言えません。
 阿弥陀さまのお慈悲は、無条件にすべての人に届いています。しかし、その救いに遇うのは命終わってからの話ではありません。今、こうして命いただいている私が、阿弥陀さまのお慈悲のはたらき場所なのです。亡くなってからのお経ではありません。今、この私が聞かせていただくお経なのです。そして、私が聞かせていただくことによって、み教えが後の時代に永く伝えられていくのです。浄土真宗の永代経法要は、そんなご法縁であります。


○ 私の姿(『光徳寺だより』2000年10月号より)
 争いを起こして怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生まれて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。(『仏説無量寿経』;本願寺出版社刊 現代語訳版『浄土三部経』より)

 日頃拝読しています経典には、二千年以上の日々を経てきたとは思えないほど私たちの生きる現代社会に深い意味をもつ言葉が説かれています。しばらく前に終末論で話題となった予言書よりもよほど現実社会を予言しているかのように感じます。
 しかし、仏教経典は社会論でもなければ、ましてや予言書でもありません。経典が説き示してくださるのは、この私の姿なのです。

 私たちは、たとえ親しくはなくとも名前や顔の分かる死者や悲劇的な死を遂げた人たちに対して感情移入をしがちです。ましてや、愛する者の死、それも犯罪や災害の被害者となった場合にはことさら痛みの激しいものです。逆に名前も知らず顔も見えない人たちの生死や境遇には無頓着になりがちです。
 環境問題からも明らかなように、私たちの生命は地球上のすべてのいのちと空間的にも、時間的にも、深く繋がっています。いや環境問題を持ち出すまでもなく、親鸞聖人が「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり」(『歎異抄』第5章)とお示しくださっているように、仏教の生命観は、いのちの連続性及び無際性を説いているのです。これは輪廻転生という象徴的な世界観にとどまるものではありません。
 名前を知らないいのち、顔を知らないいのちもまた私のいのちに繋がっています。しかし、私たちの社会は、繁栄のかげで、そうした名前の知らない、顔の見えない多くの人々の貧困を踏み台にしているのです。
 さらに、もし戦争で人が死亡すれば、その政策を支持した者も同じ責任を背負わなければならないと覚悟すべきでしょう。民主主義社会においては、政権の決定に対して私たちは無辜(むこ)の市民ではないのです。
 そんな私の姿にこそ目を向ける必要があるでしょう。

 侵略戦争には反対だけれど自衛は認めるという人は多いと思います。もし自分や家族に銃が向けられたときにどういう選択をするかを考えれば、状況によっては相手を傷つけることもやむを得ない、ということでしょう。
 さて、アメリカ合衆国の武器産業は、銃乱射事件が起こるたびに、銃の存在が悪いのではなく使用する人間の問題であると主張します。銃に反対するものは銃を使いませんが、銃に賛成するものは反対者を銃で脅すことができます。
 ここに怖さがあるのです。人間という存在が、私という存在が、あてにならないものであるという自覚をもっていなければ、自衛という言葉も暴力を美化する言葉でしかありません。

 仏教では、テロも戦争も全く否定します。それは、人間の姿を、私の姿を見抜かれた仏さまの教えだからです。


○ 粗供養について
 宗派にかかわらず、日本人がよく口にする仏教の言葉に「供養」があります。「親の供養のために」とか、「〜するのも供養」などという表現を聞くことが多いでしょう。また、「花供養」や「針供養」という法要が営まれることもあります。
 このような言い方は浄土真宗ではしませんが、たとえば「花供養」のように人間のみならず生きとし生けるもの、そして「針供養」のように私たち人間が命あるものとして見ないようなものの中にまでみ仏のお慈悲を感じていく営みには、浄土真宗の習俗が切り捨ててきた部分にも尊い教えがあったのだと、考えさせられることです。花を法縁として、仏法に遇い、命の深みを味えるように転じていくのが、「花供養」をおつとめする本来の意味かと思います。ここで注意しなければならないのは、法縁とは仏さまの側からの見方であるということです。ですから、ご宗旨にはずれることでも「何でも縁になる」としてしまわないようにしなけばなりません。
 浄土真宗は、供養という言葉を必要としない宗旨といえるでしょう。しかし、親鸞聖人以前の日本では、荒ぶる霊を鎮めるため、また死霊が生者に災いをもたらすことのないように追善の供養を行うことが仏教の常識でした。その後、供養のために死者や仏さまに供えられた供物や、善根を積むためにと葬儀の会葬者に配られた菓子なども広く供養と称するようになったように思われます。浄土真宗でも、阿弥陀さまの尊前へのお供えを(御)供養と呼ぶのであれば、必ずしも教えに反する習慣ではないように思います。
 さて、最近「粗供養」と書かれたお下がりが配られるようになりました。百貨店で法事等のお供物を注文しますと、決まって薄墨で「粗供養」と印刷された熨斗紙が出されます。この「粗供養」という言葉は仏教徒が決して使ってはいけない、仏さまをないがしろにした言い方なのです。法会にお参りした人々に配る記念品やお礼を「供養」と言い、「粗」は「粗末な」という意味で「供養」を説明する語です。ここに問題が端的に示されています。
 先ず第1に、仏さまへのお供えに「粗」があるのかどうかという点です。仏教説話に「貧者の一灯」という話がありますが、お供えに豪勢粗末の区別はありません。すべての御供えは、尊い仏物であるのですから、どのような供物であれ「御」をつけこそすれ、「粗」を付けることはしません。「御(仏)飯をお供えする」とはいっても、「粗(仏)飯をお供えする」とは決していわないはずです。謙譲は、かえって卑下慢でしかない場合も多いことです。
 第2に、仏さまへのお供えを最初から供えた者がいただくという前提で、お供えして良いかどうかという点です。「粗供養」は、参列者・参詣者もしくはお供えをした者に配ることを意図して準備されるのが実情でしょう。「お下がり」という語は、仏さまから、そのお供えを頂戴する心を表しますが、最初から「お下がり」となることを考えて、お供え物をしているとすれば本末転倒でしかありません。「粗供養」の「粗」は、そうした意識に立って、「(お参り頂いた方々に)つまらん物を配りますが…」という意味に使われているように思います。これは、仏さまへのお供えであることを忘れるという、仏教徒として恥ずべき考え方です。さらには、お参り頂いた方々に物を配ることが追善になるという意識があれば、全くご宗旨から離れることとなります。
 それでは、「粗供養」を使わないのであれば、何と書けばよいのでしょうか。「御供」と書けば、たいてい間違いはありません。「御供物(お供物)」とする場合もあります。どうしても「供養」を使いたいのであれば、「御供養(お供養)」とすればよいでしょう。
 しかし、ただ言葉を改めれば良いということではありません。この件で考えなければいけないのは、たとえ日頃よく聴聞していても、たとえ朝夜のお勤めを欠かさなくても、「粗供養」の「粗」が仏さまをないがしろにしていることに気が付かない人が僧侶にも門信徒にも多いことです。つまり習慣としての仏教を真実と勘違いし、何よりも大切な宗教的感性が鈍っていることが、一番の問題であると思います。「粗供養」の語を使わなければそれでいいというのではなく、問題の根の深さに思い致したいものです。
 このHPをご訪問くださる僧侶のために申し添えておきますと、僧侶間、寺院間で記念品やお礼としてお念珠や御袈裟が贈られるとき、「粗品」とされることがあるようです。念珠や袈裟をどのように心得るべきか、僧侶の意識が問われるように思います。もうひとつ、宗務員の職階や職掌によって輪袈裟が区別されていますが、仏物を世俗の論理にまかせた用途に用いてよいのでしょうか。さらには、類聚の衣体においてはなおさらです。



○ 泣くほどに(『本願寺新報』2000年9月20日号「みんなの法話」より)
【悲しい話はしないで】
 何年か前の話です。若い女性の声で電話がありました。お母さんがご往生なさったとの連絡でした。まだ二十代半ばのその娘さんは、最後に「葬儀にあたってお願いがあります。ご法話で悲しくなるような話をしないで下さい。泣き出してしまうと止められそうにありませんから」と申されたことでした。
 後日、葬儀のあと、思いのままに泣かれたという話をご家族からうかがい、私は安心しました。泣くという行為そのものだけではなく、泣けるほどに偲ぶ思いを深めることは、彼女が以後の人生を歩む上で大切なことだと感じたからです。
 子どもの頃、悲しい思い、悔しい思いをした時、自然と溢れ出した涙をとどめることができず泣きじゃくった経験を、多くの方がお持ちだと思います。父や母から「泣いてばかりじゃわからん。何をいいたいのか」と問われても、どうしようもなく泣くしかなかった日があるのではないでしょうか。言葉にできない思いを、泣くという行為でしか表すことのできなかった幼い頃がありましたね。
 大人になったからといって、子どもの頃に比べて悲しみも喜びも小さくなったわけではありません。むしろ、悲しみは年を重ねるごとに深まるようにさえ感じます。しかし、いつの間にか、悲しみに涙することに抵抗をおぼえるようになります。
 この私の悲しみを我がこととせずにはいられない如来さまのおこころがお慈悲でありましょう。
 木村無相さんは、
   泣くがよい
   生きたえがたい日は
   泣くがよい
と味わっておられます。

【ご本尊を中心に営む】
 都市部では自宅での葬儀が減り、会館などで葬儀を営むことが増えてきました。私たちの浄土真宗では、場所がどこであっても、位牌や遺影を中心に拝むのではなく、ご本尊を中心にご安置して通夜と葬儀を勤修します。荘厳壇や写真がご本尊を隠してしまうような場合には、葬儀社やお世話役の方にご本尊が見えるように工夫していただくよう依頼します。
 教義や儀礼の上からの解釈もあるでしょうが、恩愛の情を断ち切ることのできない私にあっては、如来さまの前は安心して泣ける場です。式場の正面にご本尊をご安置させていただくのは、「泣いてもいいんだよ」という如来さまのおこころを示しているのではないでしょうか。
 『観無量寿経』で、我が子の王子に幽閉された韋提希夫人(いだいけぶにん)が釈尊の前で思わず悲泣(ひきゅう)されたように、如来さまを中心に荘厳された空間では、はた目を気にすることなく気のすむまで泣いていいんだよ、という如来さまの声が聞こえるようです。
 ところで、お慈悲は泣ける場の提供だけで終わるのでしょうか。如来さまが、近頃はやりの癒し系ということなのでしょうか。中国の儒教の教えでは、人が亡くなるとどれほど泣けるかが愛情の深さを示すバロメーターと考えられてきました。喪中の思想や一周忌、三回忌のはじまりも、この儒教の考えに由来するといわれています。
 親鸞聖人は、こうした中国の習わしについて、慈雲大師の言葉を引かれて「すでにいまだ世を逃れず、真を論ずれば俗を誘(こしら)ふる権方(ごんぽう)なり」(470頁)とおっしゃっています。如来さまは、愛する者を偲ぶ営みを通して真実に誘って下さるのですね。

【命の重み 人生の深さ】
 私たちは、いろいろな場面で、さまざまな涙を流します。悲しいとき、辛いときに限らず、嬉しいとき、懐かしいとき、そして私たちの思い及ばない大きなものに出遇(あ)ったときにも心動かされ、自然と涙に心洗われることがあります。
 先日、葬儀のご縁に出会うようになったばかりの若い僧侶のつぶやきを聞きました。泣いている人の姿が見えず驚いた、というのです。通夜や葬儀の過去と現在との比較、ましてや心情のその比較は、簡単にできることではありません。それでも、生活様式の変化や式場の多様化などにともない、少なくとも私の周りでは、確かに葬儀の形式化が進んでいるように感じます。人間のいのちの最後に立ち会っているのだという実感が薄れてきているようにも思えます。
 泣いていいんだよ、という如来さまのおこころは、同時に泣けるほどにいのちを見つめてくれよ、という願いでもありました。
 私たちは、ややもすれば世間体や付き合いを優先して、いのちの重みや人生の深さを見つめる縁とすれ違っているのではないでしょうか。いのちを見つめるとは、如来さまが私たちのいのちを見つめて下さっている眼差(まなざ)しに出遇っていくということです。如来さまのそのご催促が自然と流れる涙かもしれません。
 必ずしも通夜や葬儀に限ったことではありません。私たちの都合中心に営まれるご法事が増える中、ひと度ひと度の法縁をなぜご本尊の前で勤修するのか、その意味を味わうことが大切でありましょう。泣いてもいいんだよ、というおこころは、泣くほどにいのちの重みを、人生の深さを感じてくれよという如来さまの願いだったのですね。


○ 1999年5月 永代経法要の栞
 長い年月を経て仏さまの教えは今に届けられて来ました。その伝え手は、私たちの父母であり、祖父母であり、お浄土に帰られたすべての方々です。永代経法要は、今こうして仏さまの教えに出遇わせていただいた私たちが、今度は伝え手のひとりとなって、み教えを後の世代に伝えていく法要です。

 現代は「いのち」を見失った時代だといわれます。
「現代人は山に木材をみて、木をみない」ということでしょうか。木そのものの「いのち」を見つめようとはぜず、単なる建築の材料としてしかみていないのです。「いのち」の尊厳が失われている姿が、この言葉に表されてはいないでしょうか。
どうして、このような時代になったのでしょうか。いろいろと考えもあるでしょうが、仏教の立場からみると大きな理由はふたつあると思われます。ひとつは、自分の目的のためには他人の「いのち」を利用することもいとわない人が多いということでしょう。その中には、「社会のため、人のため」と思いながら、実は気づかぬままに「いのち」を利用していることもあります。もうひとつは、事実を大事にしすぎて、真実を切り捨てていることです。事実と真実を取り違えてることもあるかもしれません。
 私たちの周りには、「いのち」が商品となっている例がたくさんあります。また、「いのち」に値段をつけることも日常的に行われています。お金で手に入れることのできる物とお金に置き換えてはいけないものとの線引きが薄れていっています。
 また、私たちの生活は、科学技術の進歩の恩恵を大いにこうむっています。また戦後の教育は、戦前の反省から科学的なものの考え方を強調してきたようにも思います。しかし、科学は事実を明らかにすることはできますが、真実を明らかにすることはできません。科学の言葉や方法で、「いのち」の尊さを語るという努力が、あまりなされてこなかったのです。そもそも、事実からは「いのち」の尊さはみえてこないのではないでしょうか。
 20世紀もっとも偉大な科学者のひとりといえるであろうアインシュタイン博士は、宗教の独善とともに、宗教的人間観を無視した科学の先行をいましめています。しかし、その警告に反して、科学技術の進歩は、「いのち」の商品化に拍車をかけています。例えば、クローン技術などは、そのひとつかもしれません。障害を持ってうまれてくる子供の出生前検査による堕胎は、「いのち」の選別にほかなりません。役に立つ「いのち」だけを選び、「かわいそう」との理由で「いのち」を断つことは、人間の傲慢でしかありません。たとえ、それが親であっても。
 さて、このような「いのち」の商品化と真実の隠蔽の現実の前では、どれほど「いのち」の尊厳を唱えても、「いのち」の尊さはみえてきませんし、次の世代に伝えることもできません。子供たちに、いのちの尊さを説く前に、大人が人生観・生活観を見直す必要があるのかもしれません。
 人間の「いのち」の尊さと平等性を説くことのできるのは、宗教の世界観・人間観ではないでしょうか。しかし、「葬式仏教」と批判されるように、仏教教団や僧侶も、「いのち」の商品化の片棒を担いできたのかもしれません。それどころか、歴史的には、親鸞聖人の教えに反して権力におもねり権威を後ろ盾にしてきたことも否定できません。どこかに伝統仏教に不信感を抱く人も少なくないでしょう。こころの時代といわれながら、こころが空しくなっていくばかりの責任は、伝統仏教の責任でもあります。
 だからこそ、教えを確実に伝えていく歩みが必要なのです。そのためには、先ずは「私」が確かな仏法を聞かせていただくことです。時間のかかる営みであります。結果のみえにくい営みでもあります。みえる成果を励みに努力する私たちには、なんともまどろこっしいことに思えます。それで、「永代」というのだろうかななどと思ったりもします。


○ 喪中葉書(『光徳寺だより』1996年10月号より)
 自分が差別者であるとか、積極的に差別をしようと考えている人は少ないと思います。しかし、知らず知らずのう ちに、差別を支えていることはあるものです。例えば、文化には「差別を許す文化」があるといわれますが、年末に舞い込む喪中欠礼の葉書もまた「差別を許 す文化」のひとつではないでしょうか。
 理由はふたつあります。まず第一に、喪中思想がケガレ思想と深く結びついているということです。差別語のい くつかが如実に物語るように部落差別を支えてきた論理の核がケガレ思想です。「けがれている」という根拠のない理由で、差別が行われてきたのです。ケガレ思想は女性差別にも深く関係しています。
 日本の喪中という考え方は、中国の儒教が説く服喪儀礼と日本で死の穢れを忌む文化とが結びついて成立したも のです。死を穢れとみる思想が喪中の考え方を生むのです。穢れを認める文化は、「差別を認める文化」といえる でしょう。
 浄土真宗では、葬儀の清め塩を使わないことに代表されるように、死を穢れとはみません。娑婆の縁尽きたとき、 それはお浄土で仏のいのちに生まれていくときです。私たちのいのちは死で終わるものではありません。死が縁と なって、浄土へ往生するものは仏となり、娑婆に留まるものはいのちの尊さに気づかされていくのです。どうして、 死が穢れであるでしょうか。
 あなたは、「早く元気になって」と願った方に対して、医師から臨終の宣告を受けた途端に、その願いも忘れて 塩をまくのですか。そのときまで握っていた手を、「けがれている」と振りほどくのですか。死を穢れとみる思想 は、このように極めて非合理的なのです。
 第二に、世間の慣習だからという考え方が差別を生む底流となっているということです。何の根拠もないことを、 「お上」がいうからとか世間の通説として、自分で確かめることもなく、意味を考えることもなく、ただそのまま 受け入れる所から差別意識は生じてくるのです。
 先日お亡くなりになった丸山真男氏が、「日本には、存在するものはただ存在するがゆえに存在するという俗流 哲学がかなり根強いようであります(中略)なぜ存在する価値があるのかということを不断に問題にする意識が乏 しいように思います」と述べておられますが、このような日本人の意識が、今日の沖縄問題や消費税など弱者を切 り捨てていく政策を支えているように、無批判に世間の慣習を「すでに存在する」として受け入れてしまう姿勢が、 前近代以来の身分意識や差別の構造を支えてきたのです。加えて、自らの主体性を放棄する意味で、阿弥陀仏の願いにも背を向ける姿であるといわねばなりません。
 勿論、喪中葉書を出す人が差別者だと断じているわけではありません。また、浄土真宗のみ教えという点からだ けいえば、年賀状という慣習や正月のあり方そのものを問題としなければならないでしょう。そのためには、まず 分かりやすいことから考え始めようということで、喪中葉書を取り上げているのです。
 私たちがお念仏を喜ぶということは、少し難しい言葉になりますが、仏さまの平等心をいただいて自らの差別心 に気づき、差別を許さない主体を確立していくことです。
 「それでも」という気持ちはあるでしょう。強制するものでもありませんね。でも、考えることはやめないで下さい。
 たった一枚の葉書ではありますが、どかかで人を苦しめていく一枚になることもあるのです。自分ひとりが何を しても変わらないなら他人に合わせておいた方が賢いという卑怯な考え方が、弱者を疎外していくという現実を何 も変えることなく支えているのです。「私はしないんだ」という思いの積み重ねは、差別をなくしていく大切な営 みのひとつです。
 では、喪中葉書をやめてどうすればよいでしょうか。毎年、年賀状を出されている方は、まずは同じように出さ れてはどうでしょうか。亡くなられた方と一緒に写っている写真や偲ぶ言葉などを添えて。(書き方のわからない 方は寺までご相談下さい)


○ 1994年11月 報恩講の栞
 先日、近いうちに結婚を予定している友人から、次のような話を聞きました。彼は、結婚式・披露宴のホテルを選ぶため、色々な式場を紹介してくれる相談所に行ったそうです。その時の友人と相談員との会話を聞いてみましょう。
 相談員「ホテルは一年前からご予約できます。土曜日や日曜日ですと少しでも早くお決めになりませんと、ご希望通りいかないことがあります。ご予定はいつ頃ですか。」
 友 人「だいたい来年の ○月 ×日ごろを考えているのですけど・・・。」
 相談員(来年のカレンダーを調べて)「土曜日ですね。あっ、その日は仏滅ですよ。」
 友 人「僕はそういうことは別に気にしてませんから。」
 相談員(少しけげんそうな顔をして)「仏滅でしたらすいていますので、多少遅くなっても予約できますよ。」
相談員は結婚式に仏滅を避けるのは当然という思い込みがあったようです。そして、実際土曜日や休日でも仏滅を避ける人が多いから、すいているのでしょう。

 最近、キリスト教の教会を併設する結婚式場が増えているそうです。大安とか仏滅とかの日にこだわりながら、教会式を挙げる滑稽さに気づくこともなく、それでも誰かの命日には「なんまんだぶ」と手を合わしている裸の王様が、この国にはあふれています。
 「坊さんはどういうか知らんが、世間がすることはしといた方がええ。世間があかんということはやめといた方がええ。」という声を時々耳にします。世間という言葉で表される不確かなものを、裸の王様たちはあたかも歪むことのない定規のように振りかざします。裸の王様は、周りがみんな裸であることに安心してそのまやかしと滑稽さに慣らされ、やがて自分を縛るようになっていきます。
 しかし、人生や生き方は多数決では決まりません。数が多いから正しい、とはいえないのです。親鸞聖人のご和讃の中に、

   五濁増のしるしには       この世の道俗ことごとく
   外儀は仏教のすがたにて   内心外道を帰敬せり

とあります。坊さんも信者も一見すれば、仏教徒のような顔をしているけれども、心の内では仏教以外のものに依り懸かっている。それが今の時代だ。社会悪が横行し(劫濁)、正しい思想や見解が受け入れられず(見濁)、むさぼりと怒りの気持ちが満ち満ちて(煩悩濁)、人間自身の心が深く病んでいき(衆生濁)、やがては生命の尊さを見失ってしまう(命濁)。八〇〇年も前に親鸞聖人が和讃に「この世のしるし」と歎述された姿は、まさしく現代社会の姿でもあります。今朝も新聞が配られて来ました。その新聞を前にして、五濁の世を大げさな心配症と笑い飛ばすことが、誰にできるでしょうか。
 「世間が・・・」という「世間」とは何と不確かな世界なのでしょう。そして何と無責任な世界でしょう。私たちはみんな、そのような「世間」とは、別の世に生きているように思っています。しかし、どっぷりとその中につかり、支えているのは紛れもなくこの私なのです。仏教徒の真似ごとをしながら、心の中では外道を拝んでいる姿は、新聞を賑わす「世間」とは関係ない顔をしながら、その実「世間」の根底を流れる悪習や意識に支えている姿に等しいではありませんか。ほんに裸の王様は私自身です。

 親鸞聖人は九十年のご生涯をかけて、裸の王様が自らの本当の姿を映す鏡を示されました。裸の王様が裸であることに気がついたとき、はずかしいと感じたとき、そのはずかしい私をそのままおまかせすることのできる世界を顕らかにして下さいました。報恩講は、親鸞聖人のご苦労に感謝しご恩に報いるため、真実の教えを聞かせて頂き、お聴聞の姿を通して子や孫に南無阿弥陀仏を伝えていく法要です。


○ 1995年11月 報恩講の栞
 最近、私たちの関心を集めていることのひとつに、オウム真理教の一連の事件の裁判があります。ワイドショーでは、今もって麻原彰晃被告を法廷で「尊師」と呼ぶ信者のいることをマインド・コントロールがそれだけ深かったためだと評論します。
 十年ほど前のことでしょうか、仏教学や仏教史学を専門とする学者の間で、「仏教教義や教団における女性差別」をテーマにしていくつかの学会が開かれました。ある学会で、激しい論争がありました。社会史や女性学の専門家たちが、鎌倉仏教の祖師たちが女性を差別したと主張したのに対して、主に僧侶である仏教学の専門家たちは、決して祖師たちの女性差別を認めませんでした。
 それからしばらくして、キリスト教のローマ法王が、約400年前にガリレオ・ガリレイを有罪とした当時のキリスト教会の裁判の間違いを認め、ガリレオの名誉を回復するということがありました。私たちの生きている地球が太陽の周りを回っていること(地動説)は、今では誰でも知っていることですが、400年前には地球を中心として宇宙が回っているという考え方(天動説)がキリスト教社会の常識とされていました。そして、天動説がキリスト教の世界観の中心をなすと考えられていたので、ガリレオのようにそれに反する意見は、危険思想として社会から排除されたのです。ところで、自分たちの過去の間違いを認めたローマ法王はその宗教的権威を失ったでしょうか。それによってキリスト教の世界観が崩れ去ったでしょうか。詳しい事情はわかりませんが、これ以上過去の過ちを放置することよりも、過ちを認めることの方が、ローマ法王や現在のキリスト教徒にとって信仰にかなう選択だったのだと思います。その点において、実はガリレオ裁判は過去の出来事ではなく、現在のキリスト教徒の問題だったのです。
 「今」の「私」を問うていくのが宗教の姿勢だろうと思います。「尊師」や「祖師」の権威を護るために、「私」を問わないのでは宗教ではありません。現在の自分を正当化するために過去に言い訳を積み重ねていくのも宗教ではありません。現在の日本の宗教は、伝統教団も新興宗教も百花繚乱の様を呈しながら、「今」も「私」も問うていないのが現実の姿ではないでしょうか。それは、宗教者とか信仰者とかいわれる者だけの問題ではありません。戦後五十年をいう政治も然り。バブルの後始末に汲々とする経済も然り。日本中どこもかしこも、誰も彼も同じではありませんか。
 話が少し大きくなりました。私自身はどうでしょうか。「ウチは先祖代々浄土真宗です。 親父の葬儀も光徳寺のご院さんが来てくれはったし。光徳寺は浄土真宗でしたな?」そこには、「今」も「私」もありません。

  浄土真宗に帰すれども   真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて   清浄の心もさらになし

 浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご生涯は、いうなれば、娑婆の縁尽きるその時まで、仏さまの真実のお心との出遇いを通じて、ご自身の姿を問い続けられた九十年でした。報恩講は、親鸞聖人を絶対的権威としてまつり上げるための法要ではありません。聖人のご生涯をおしのびする中に、一人ひとりがお念仏の教えに出遇い、「今」の「私」の姿に気づかせていただく法要にしたいですね。


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浄土真宗本願寺派光徳寺
(大阪府吹田市)
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